屋号はまだない

木工家のたまごが感じる、日々のあれこれ。

先人のことだま1

このシリーズは私の心のメモ的シリーズです。

心に残った先人の言葉について綴る時間。

 

初回はネイティブ・アメリカンの人たち。

ネイティブ・アメリカンの存在と出会ったのは私が小学校4年生の夏休みだった。

毎年夏休みの宿題で出される『読書感想文』その感想文を書く為の本を図書館に探しに行って、何冊か気になる候補を見繕った中の一冊だった。

今でも良く覚えている、『ナバホの大地へ』という本。そこで生々と描かれる羊の命を頂くシーンに、当時の私は衝撃を受け、スーパーに当たり前に並んだお肉と、牛や豚や鳥が確かに結びついた瞬間だった。

小さい頃は食が細くて、食べ残しも沢山してきた私。その度に地球の裏側ではご飯を食べられない子もいるんだよ、とか、食べ物も命なのだから無駄にしてはいけないと、口酸っぱく大人に言われてきていた。だけど食べられないものは食べられないんだもの、と思っていた。

そんな私はこの本と出会ってから、体調が悪い時を除いて、ご飯を一切残す事がなくなった。まぁ、中学校に上がってからは運動部に所属していたから、必然的にお腹はすくし、食が太くなったのはあると思うけれど、食べ物に対する気持ちがガラっと変わった出来事だった。

その衝撃と、命とは、死とは、生きるとは、小学生ながら自分に問うた読書感想文は学校代表に選ばれて、賞をもらった最初の作文だった気がする。

 

それ以来、なにかとネイティブ・アメリカンの存在は私の中で気になる人たちで、関連の本も読んできた。その世界観や哲学には大いに影響を受けて来たように思う。

 

そんな彼らの、最近気になった言葉たち。

 

 

知恵を探せ、知識ではない。

知識は過去だ。

知恵は未来だ。

 

 

知識だってもちろん大切。けれどそれに囚われてはいけない。ともすれば私は知識に偏りがちだから、ハッとさせられた。

知識や常識には賞味期限みたいなものがある。認識によって変わっていく可能性のある情報であることを忘れてはならない。

けれど知恵には普遍的な、自然の理に沿った何かがあるように感じている。

 

そしてこれ。

 

 

自然から遠ざかれば、

心は固くなる。

 

 

これも最近実感したこと。

近頃は山菜フィーバーで野山に出かける事が多くなって、改めて気付かされた。

地面に這いつくばってみないと見えない視点からの世界は感動に満ち溢れていること。

 

朝露に朝日が反射して七色に輝く瞬間

のびをし始める新芽のぐぐぐっと湧き上がる生命力

冬眠から目覚めたばかりの蛙が見上げる空

土から湧き上がる春の薫り

 

意識しなければ現代人の時間は、自然のそれと乖離してしまう。

五感のうち限られた感覚しか使わなければ、その機能は麻痺して行くし、感じ取れるものはどんどん少なくなって行く。

それは、自分の感性を殺して行くことだ。

感性は生きることを深く味わう為に欠かせない、大切なアンテナ。

大好きな茨木のり子さんの詩に

『自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ』

っていう言葉がある。まさにそう、ぱさぱさに乾いた心に水やりをする、その行為は私にとって自然に触れることなんだと思う。

 

最後に

 

 

人生とは何か?

夜に点滅するホタルの光だ。
バッファローが冬に吐く息だ。

草原を走り、
夕暮れとともに自ら消える小さな影だ。

 

 

これ、いい言葉だなぁ。

きっと地球にとってみれば、刹那の存在なんでしょう。

有名なあの人も、隣のこの人も、私も。

壮大な流れの中で、当たり前のように生まれ、いつの間にか消えていく。

 

その刹那に、降り立ったこの土地で、精一杯生きて

一瞬でも、命を燃やしたいものだなぁ

頂いたものを、還していかないと