カリスマ性
カリスマ性ってなんだろうって思う。
人を惹きつける力の強い人にはこれまでも何人か出会ってきた。総じてブレない自分らしさを貫いていて、明るく、笑顔が素敵で、元気でパワフルな人。スター性のある人。
私の目指すことは、色んな人の力を借りないと成し得ない。
けれど人に力を借りるためには、自分自身に人を惹きつける魅力が無ければならない。
私はお世辞にもパワフルな人間ではない。淡々としていて、血圧は低いし、大きい声は苦手だし、脇役タイプ。そんな自分に先述のようなカリスマ性は期待できない。きっと演じられないことはないのだろうけど、どこかで無理が出るし、偽りの自分でカリスマ性を得たかって、それでは本当の自分に自信を持てなくなってしまう。経験済みだ。
自分らしい自分の魅力を相手に伝えられる力が必要だ。
そのために、自分をブランディングする必要がある。
自分らしい自分の魅力を知り、伸ばす必要がある。
自分にしても、会社にしても、プロジェクトにしても、色んなことを戦略的に組み立てたり、宣伝したり、話をするのが上手な人がいる。
そういう人に出会うと凄いなぁ、と思うし、私に足りないのはそういう所なんだろうなぁ、と思うのだけれど、それが上手だと私らしくないし、戦略的に話す私の言葉なんて伝わる気がしないし、 とても難しい。
私の魅力や強みってなんだろう?
ホンモノの仕事
私の人生において、この人は、という別格級に尊敬してやまないお方が3名いる。(一方的に知ってる人ならもっといるけれど、実際に会ったお方で、の話。)
その3名に共通して言えることは、その一言一言の説得力、深さが段違いなのだ。
仕事に対する姿勢も、常にお金以上の価値を生み出し続けていて、現代社会が「お金にならない」として切り捨ててきてしまったものを、大切にしていて、決してないがしろにしない。そこに宿るものこそが、人に心地よさと感動を与えると知っている。細部にまで、命が宿っている、まさに、そんなお仕事をされる。
それはきっと利他の境地なんだろう。自分の利益の先にある、もっと大きなものを見ている。
「影で血を吐くような努力をして初めて、人に感動を与えられる仕事ができる」
と、どの方も同じようなことをおっしゃる。
他者の眼差しというものは凄くて、人を変える力がある。けれどそんな他者の眼差しの無い所で純粋な努力を続けられる人というのは本当にすごい。(私はその境地にはまだ至れていない。つい自分に甘くなってしまうから、周りに宣言することで自主的に期限を設けたり、人の目に晒すようなことを定期的に行なっている。)
こんな凄い人たちのホンモノの仕事に触れることができる私は本当に幸せ者だし、この出会いに恥じない仕事を私もしなければと思わされる。
まだ遠すぎて、とても大きな声では言えないけれど。
けれど人間、常に気を張っていられるわけじゃないから、抜け感や余白も必要で。
そのバランスも絶妙に素晴らしい人たちなんだ。力が抜けているのに、肩肘張っていないのに、その余白すら美しい。
そんな大人に私はなりたい。
空間の大切さ
最近引っ越しをして、(といっても三週間以上経ってしまった)身の回りが落ち着かなくて、そのせいか色んなことがわーってなってた期間が二週間くらい。
強制的に引っ越しはしたものの、部屋をきっちり整理したりする時間がとれなくて、まぁ部屋が雑然としていたわけです。そしてそんな雑然とした部屋に帰ってきても心は休まらないわけで…
「良い仕事は良い空間から」とはよく言われたもので、空間の大切さを痛感したここ数週間でした。やっと部屋の整理もだいぶついて、作業スペースも確保できるようになってひと心地。
引っ越しを機に大量に溜まって来ていた書類の整理もできて、すっきり。洋服も少し手放すことにした。たぶん、人にはそれぞれ許容量というのが存在していて、あまりに抱えすぎると滞る。それは気であり、機であり。今の自分に必要なくなったものにはお礼を告げ、お別れするのも大切。許容量をオーバーした状態では気持ちの良い生活も仕事もできないのだと思う。お別れをすると、心が軽くなるのが何よりの証拠なのだろう。
そういう点で、引っ越しは良い機会とタイミングだった。
新しく何か始めるタイミングに、気持ちの整理を強制的につける機会を貰えたと思えば。
そしてもう一つ、今まで使ってた家具類の使う場所(使い道?)を変えたり、しっくり来るまで模様替えをあーでもないこーでもないとして見た結果、以前より断然快適な空間を作ることに成功して、とても満足している。
やっぱり空間を作るのは面白い。そして家具の用途変更は全然ありだ。
暮らしやすいように、心地よいように。それを意識して、既成概念に囚われずに空間や物を作る。このことには挑戦し続けたい。
元来掃除も整理整頓も苦手な子供だった私だけれど、大人になるにつれて(特にそういう分野に興味があるからかもしれないけど)「あ、こんなんアリなんだ!」「こんな使い方素敵だなぁ!」っていう色んなリノベ空間に出会ってきて、少しずつ空間を創るというコトが分かって来たというか。最近ある一定量を超えて、突然空間を見る目が成長した気がしている。(まだまだだけど)
それもこれも多分「自分がやらなければならない立場」に立ったからだ。まずはやってみる、実践してみるのが最短で成長できるルートだと思うのはこういう所。何事も自分事になると課題が浮き彫りになるし、アンテナの精度が上がるので、的確に必要な情報を集められる。
「ものづくり」の先には「暮らし作り」がある。最終的には家具の制作や古家具の仕立て直し、古材を使った空間づくり、その先にそんな空間で暮らすライフスタイルの提案が無ければならない。
まだまだ力が足りないけれど。一歩一歩だ。
力んでた、不器用な、あの頃
ふと高校時代の友人と言葉を交わす機会があって、あの頃を思い出していた。
小~高校の私の思い出なんて、あんまり良いものはなくて、恥ずかしく、未熟さが情けなく、消してしまいたい過去だらけだ。
とにかくモヤモヤして、気に入らないことや馴染めないことが多くて、どうしたら良いのか分からないまま、間違ってしまったことだらけ。
力んで生きてた、不器用の塊だったな、と。
あの頃の私しか知らない友人は、私のことを一体どんな風に思って見ているんだろう、って、柄にもなく、周りの目を気にした。
ちゃんと出会うことはなかった、友人ばかりだった。
部活にばかり打ち込んでいたのもあると思うけれど、友達と遊びに行くとか、放課後寄り道するとか、そんなん、たぶん両手で数えられるくらい。不器用だったから、なんか一つのことしか頑張れなかったんだろうなぁ、たぶん。3年間同じ高校だったからって、私はたぶん、誰のこともちゃんと知らない。
生きてなかったな。修行期間みたいなもんだった。私にとって青春時代なんて、そんな美しいもんじゃない。けれどその先に、ワクワクして、心を揺さぶられる沢山の景色と、人と、物に出会えて、やっと、自分の人生生きてるって感じがする。
今ならちゃんと会えるのかな、話せるのかな、そんなことを思ったり。
随分と地元からは離れてしまったから、機会は無いかもしれないけれど、もう一度会える友人がいれば、きっとその人とは本当の友人になれるような、そんな気がしている。
徒然と、命の時間
最近、ちょっとした事故を起こしてしまい、意気消沈というか、沢山反省をして、近頃の自分を振り返っていた。そんな矢先、身近で倒れられた人がいて、否応なしに考えさせられる機会が与えられているように感じている。
普段は意識しない今この瞬間が、誰かの存在によって絶妙なバランスで維持されていること。存在は唯一無二だから代わりは決していないのだけれど、そのアンバランスを埋めるべく、新たな体制と存在が現れる。そうして決して途切れる事無く、日常は常に移ろい、変化していること。
命には、いつか終りが来るということ
考えないようにしている死を、強烈に意識させられる時、生に1番近づく。この瞬間、よく砥いだ刃物の切っ先を向けられたような、自分の命を問われる瞬間が、畏敬の念に似ている。
私はこの世で何をするのか
いつも何者かになりたくて、もがいていた学生時代
手や、身体を使って、何かを生み出せる存在に憧れてやまなかった
それはとてもしんどくて、エネルギーがいることで
けれど、やろうと決めた
でも、まだ、伴っていない
もっと手を動かさなきゃ
いつも、理想がある
それはそれは遠いところに
だからきっとしんどくなるんだろう
今との差を比べては、ため息を吐いてしまうのだろう
目の前の、足元を見て、一つずつ
自分の無力さに絶望せずに
淡々と、やる
焦らず
そのことが、大切で、とても、難しい
私は、この世で、何をするのか
何者になるのか
その問いかけは恐ろしくもあり、私を奮い立たせるものでもある
何者かにならなくても、自信のもてる、私でありたい
先人のことだま1
このシリーズは私の心のメモ的シリーズです。
心に残った先人の言葉について綴る時間。
初回はネイティブ・アメリカンの人たち。
ネイティブ・アメリカンの存在と出会ったのは私が小学校4年生の夏休みだった。
毎年夏休みの宿題で出される『読書感想文』その感想文を書く為の本を図書館に探しに行って、何冊か気になる候補を見繕った中の一冊だった。
今でも良く覚えている、『ナバホの大地へ』という本。そこで生々と描かれる羊の命を頂くシーンに、当時の私は衝撃を受け、スーパーに当たり前に並んだお肉と、牛や豚や鳥が確かに結びついた瞬間だった。
小さい頃は食が細くて、食べ残しも沢山してきた私。その度に地球の裏側ではご飯を食べられない子もいるんだよ、とか、食べ物も命なのだから無駄にしてはいけないと、口酸っぱく大人に言われてきていた。だけど食べられないものは食べられないんだもの、と思っていた。
そんな私はこの本と出会ってから、体調が悪い時を除いて、ご飯を一切残す事がなくなった。まぁ、中学校に上がってからは運動部に所属していたから、必然的にお腹はすくし、食が太くなったのはあると思うけれど、食べ物に対する気持ちがガラっと変わった出来事だった。
その衝撃と、命とは、死とは、生きるとは、小学生ながら自分に問うた読書感想文は学校代表に選ばれて、賞をもらった最初の作文だった気がする。
それ以来、なにかとネイティブ・アメリカンの存在は私の中で気になる人たちで、関連の本も読んできた。その世界観や哲学には大いに影響を受けて来たように思う。
そんな彼らの、最近気になった言葉たち。
知恵を探せ、知識ではない。
知識は過去だ。
知恵は未来だ。
知識だってもちろん大切。けれどそれに囚われてはいけない。ともすれば私は知識に偏りがちだから、ハッとさせられた。
知識や常識には賞味期限みたいなものがある。認識によって変わっていく可能性のある情報であることを忘れてはならない。
けれど知恵には普遍的な、自然の理に沿った何かがあるように感じている。
そしてこれ。
自然から遠ざかれば、
心は固くなる。
これも最近実感したこと。
近頃は山菜フィーバーで野山に出かける事が多くなって、改めて気付かされた。
地面に這いつくばってみないと見えない視点からの世界は感動に満ち溢れていること。
朝露に朝日が反射して七色に輝く瞬間
のびをし始める新芽のぐぐぐっと湧き上がる生命力
冬眠から目覚めたばかりの蛙が見上げる空
土から湧き上がる春の薫り
意識しなければ現代人の時間は、自然のそれと乖離してしまう。
五感のうち限られた感覚しか使わなければ、その機能は麻痺して行くし、感じ取れるものはどんどん少なくなって行く。
それは、自分の感性を殺して行くことだ。
感性は生きることを深く味わう為に欠かせない、大切なアンテナ。
大好きな茨木のり子さんの詩に
『自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ』
っていう言葉がある。まさにそう、ぱさぱさに乾いた心に水やりをする、その行為は私にとって自然に触れることなんだと思う。
最後に
人生とは何か?
夜に点滅するホタルの光だ。
バッファローが冬に吐く息だ。
草原を走り、
夕暮れとともに自ら消える小さな影だ。
これ、いい言葉だなぁ。
きっと地球にとってみれば、刹那の存在なんでしょう。
有名なあの人も、隣のこの人も、私も。
壮大な流れの中で、当たり前のように生まれ、いつの間にか消えていく。
その刹那に、降り立ったこの土地で、精一杯生きて
一瞬でも、命を燃やしたいものだなぁ
頂いたものを、還していかないと
ひとりでやらない
この半年、本当に心強い仲間が増えた。
移住してきたばっかりの頃は、私の取り組もうとしてる古材や古家具の活用、リビルディングセンターの立ち上げには実働として一緒に頑張ってくれる仲間はいなかった。
なんというか、大先輩や大御所の方々が応援はしてくれてるんだけど、お伺いを立てる、くらいの圧倒的差がそこにはあって、気軽に『助けて』や『手伝って』を言える間柄の人はいなかったのです。
だから正直、孤軍奮闘、って気分で毎日必死に不安と戦っていた。
本当に私にできるのだろうか、いや、でも、私がやらなきゃ誰がやるんだ!
って毎日毎日自分を鼓舞して必死に立ち向かっていた。
けれど今は現場で一緒に頑張ってくれる仲間が増えてきて、そこは本当、地域おこし協力隊になって良かったなぁって思う所です。
本当、人なんだ。
ひとりじゃできないことも、誰かとならやれることっていっぱいある。
私は誰かと、自分の限界を越えたことにチャレンジしたい。
修行して実力ついてから取り組むのが王道、そんなことは分かってる。
でも、今目の前にある、消えて行きそうなものを放ってはおけないでしょう?
誰かと繋がって、一緒に取り組めば解決できることなら、私は絶対そちらを選ぶ。
さぁ、実力以上のこと、自分の限界のその先に、チャレンジする年。
恐れより、ワクワクが勝っている。
それはきっと、ひとりじゃないから。